ミャンマーでのミッションにとって挑戦の時代

マーク レーパー SJ  イエズス会アジア太平洋協議会議長

アウンサンスーチーが公の場に自由に姿を見せることができるようになった時、何百人という政治犯が釈放され、反体制者が海外での亡命をやめて自由に故郷に帰ることができるようになった時、言論弾圧や制裁が解除され、選挙が行われた時、そして議会が新しい憲法を立案するために開かれた時、多くの人は、戦いに勝利したと考えたかもしれません。しかし実際には、ミャンマーを再建するという仕事は始まったばかりです。

残忍な失政とひどい指導力だった半世紀の後、無数の憤りが煮えたぎっています。教育、医療、社会福祉、そしてインフラ整備を怠ってきた数十年は、すぐに克服されるはずがありません。独裁政治が自分の国の市民たちの統制を緩和することで、人びとは苦しんできた危害や不正に抗議する機会をつかみます。自己表現がより普通になるにしたがって、力のある民族的、宗教的、文化的枠組みが明らかになり、狂信的行為、民族的な不一致、そして古い妬みが再び現れます。

ロヒンギャRohingyaの扱い、ミャンマーでのイスラム教徒に対して拡大する攻撃への反応、カチン州での戦争の平和的解決を成し遂げる度量、そして多くの民族的・人種的集団間で、調和を見出す能力は、テイン・セインの新ミャンマー体制だけでなく、現在この国での新しい投資の可能性に、蜜月のような期間を過ごしている多くの国や企業という、新しく見つけた友人たちをも試すことになります。このような状況の中で、新しい社会的制限、新しい交渉の技術、共同体を構築するための、そして環境を保全するための努力が、大いに必要とされています。

ミャンマーの教会は、新しい機会と挑戦に目を覚ましつつあります。神学校や幼稚園は別として、わずかな公的サービス、権威者や他の宗教から、必要な孤立状態の歴史があって後、教会はこの市民社会に参加することを学び始めました。今、教会の指導者たちは、社会の多くの分野にまたがって、友情や信頼を発展させ、交渉する機会を持っています。

このような状況にあって、ミャンマーにおけるイエズス会のミッションにとっての挑戦もまた大きいのです。施設を建てるには早すぎるかもしれませんが、人びとや養成に力を入れることは早すぎるということはありません。最近、ミャンマーのイエズス会員は、すべてのイエズス会がミッションにどのように協力し、サポートできるかを相談するために、数人の管区長訪問を主催しました。管区長たちは、ミャンマー内での発展、挑戦、機会のアウトラインを描いている教会や市民社会のメンバーたちと会いました。

相談では、教会への私たちの奉仕、ミャンマー社会へのアウトリーチ活動、そして養成や統治といった内部の課題について熟慮されました。
30人以上の養成中のミャンマー人イエズス会員がおり、彼らの多くはフィリピンやインドネシアで勉強しています。人々への奉仕に、数年間、実際になじむために、彼らのかなりの数が今年には戻ってくるでしょう。ミャンマーにおける、今後数十年の間の挑戦の時代には、多様な技術の質、識別、規則、深い自己認識が、彼らにおいてだけでなく、コミュニティ作りに献身する全ての人に要求され、若い人には才能、社会には調和が求められています。

キリストの復活が新しい光と夜明けという希望を切り開いた今、孤立と圧制という長くて暗い夜から、現在脱しつつある国に奉仕しようとする、巣立ちしたばかりのミャンマーミッションのために、祈りと実際的な支援をもって、一緒に参加をお願いします。

ビルマ人として日本に生まれて

テュアン シャンカイ

初めまして。私の名前はテュアン シャンカイと申します。私の両親は、1991年にミャンマー本国で行ってきた、反政府活動に対する迫害の恐れがあり、日本に亡命してきました。よって私自身は日本で生まれました。現在は関西学院大学の総合政策学部で、主に公共政策を中心に勉強しています。

私は1993年10月6日に、新宿区の聖母病院で生まれました。当時私の両親には在留資格がありませんでした。母親は外国人登録証すら持っていませんでした。母親は日本に来た際に、ブローカーにパスポートを取られて、半年以上経ってから返してもらいましたが、その時には既にビザも切れており、自分が日本に入ってきた時のビザではないものとすり替えられていました。妊娠した時に区役所で登録証も何もなかったので、母子手帳ももらうことさえ出来ず、検診を受けていた病院から英語で書かれた母子手帳を頂きました。私が生まれた所が新宿区だったため、新宿区に出生届を出すように言われました。言葉もやり方も何も知らなかった父親が、新宿区に出生届を出しましたが、その後の手続きに関しても何も分からないまま私は育っていきました。

両親はミャンマー国籍なので、私のためにミャンマー国籍を認めてもらうために、大使館にもお願いしに行きましたが、高額の税金を請求されました。当時の両親は、生計を立てるのに必死であったために、払う事が出来ませんでした。また税金と言うのも不当な税金であったために両親も支払う事を拒みました。加えて両親はミャンマー本国で反政府活動を行ってきたために私のミャンマー国籍は認めてもらうことが出来ませんでした。それで国籍の手続きさえも大使館は何もしてくれませんでした。よって私にはミャンマー国籍を証明するものがないため、自分の外国人登録証を作ることも出来ず、区が無料で行っている予防注射や検診などにも行くことが出来なかったので、民間の病院で多額の費用を払って予防注射を受けていました。

やがて幼稚園に入る年齢になりましたが、両親は何も出来ませんでした。しかし、チン民族の知り合いが保護者になってくれて、その人の家の近くの東京都大田区蒲田にある幼稚園に1998年から2000年まで通うことが出来ました。とはいえ、当時私たち家族は大田区の田園調布に住んでいましたので、毎日電車で通わなければなりませんでした。幼稚園を卒業すると、同じ敷地にある新宿小学校に入学することが出来ました。入学するに当たって自分の外国人登録証も発行することが出来ましたが、国籍の欄には無国籍と記載されていました。2004年に、難民申請をした際に入国管理局から、両親がミャンマー国籍であるから、息子にもミャンマー国籍と書き直しなさいと言われたので、言われたまま役所に行って国籍欄を変えてもらいました。確かに私の国籍欄にはミャンマーと記載されましたが、法的に自分の国籍を証明する書類は何もありません。そのため私は事実上の無国籍者です。

今日に至るまで、私は国籍というものを持っていません。現在私は大学生になりましたが、今後の将来について非常に不安です。まず私は自分自身の中で、私は何者であるか?についてどう答えるべきかわかりませんし、答えも見つかりません。加えて両親はミャンマー国籍ですが、仮にミャンマーの情勢が良くなって、両親がミャンマーに戻った場合、ミャンマー国籍を持っていない息子である私はどうしたらいいのか、家族が離れ離れになってしまう恐れも充分にあります。また例えば自分が今所持している再入国許可証で留学に行けたとしても、留学先でトラブルに遭遇した場合、私はどこで保護を求めればいいのか、ミャンマー大使館に行っても国籍を証明するものはないですし、日本大使館に行っても再入国許可証は日本国籍を証明するものでもないので、私はどうしたらいいのか分かりません。

条約難民の方は、難民パスポートを与えられているので、どこに行っても国連の保護を受けることが出来ますが、私は人道的配慮による在留特別許可を持っているだけなので、条約難民としての扱いもされず、私の身の安全は保障されていません。

最近、一番不安を抱いているのは、就職に関してです。就職活動をしても、自分を採用してくれる企業があるかどうかとても不安です。仮に私が日本へ帰化したとしても、日本国籍として認めてもらえるのかどうかも分かりません。一番の望みは私のような無国籍者を支援する、公的な組織や相談窓口を作ってほしいのです。

現在、私は難民料理を大学の学食で導入するプロジェクト「Meal for Refugee」の代表をさせて頂いております。このプロジェクトは、NPO法人難民支援協会が、今年の2月に出版し『海を渡った故郷の味』という、45のメニューが載っているレシピ本を元に学食で導入して、学生に向けて難民について正しい理解と関心を持って頂くための活動です。現在首都圏で3大学、関西で2大学がこの企画に参加しており、6月20日の世界難民の日に向けて、5大学で協力し合って活動を行っております。

最近日本社会の中で「難民」と言う言葉がよく使われる様になりましたが、本来の難民の定義に沿った使い方をしているとはとても言い難いです。例えば、東日本大震災からよく使われるようになった「帰宅難民」を初め、「レーシック難民」「ネットカフェ難民」という様に、難民の使い方が非常に多様化しており、ますます本来の難民の意味が分からない若者が増えるのではないかと非常に危機感を抱いています。ですので、改めて難民の本当の意味を理解して頂きたいのに加えて、こういった間違った使い方を、今後は控えて頂きたいのです。

私には夢があります。
それは幼い頃から好きだった日本の鉄道システム、特に新幹線を自分の祖国であるミャンマーに紹介して、ミャンマーの発展に貢献するという夢です。ミャンマーは軍政移管によって、民主化へ向けて勢いに乗っておりますが、まだまだ民主化の達成には時間がかかると私は考えております。国内にはいまだに内戦や紛争が起きており、これらを解決するためには多くの時間とお金が必要です。この事があまり日本社会には知られておらず、非常に残念です。決してミャンマーの情勢が良くなったわけではないという事を、これからも伝えていきたいです。

大学2年生になり、そして今年で成人にもなります。難民2世である私が少しでも功績を残して、後輩や次の世代の子どもたちが、少しでも日本社会で何も不便なく過ごせるように、一所懸命頑張っていきたいと思います。

タイ:移民労働者は、継続的な困難に直面している

ダナ マックレーン  JRSアジアパシフィック報道担当
編集:安藤勇 SJ、イエズス会社会司牧センター

[ここでは、タイにいる約150万人の非正規ミャンマー人移民労働者の状況について、最近の報告を取り上げます。執筆者は、タイのJRS(イエズス会難民サービス)の移民支援担当者です。]


社会は、移民と難民に対して、新しい考え方を発展させなければならない。

バンコク、2013年3月7日 ―― 先月、タイの推計200万人の非正規移民労働者は、4か月の滞在の延長を認められた。そして、2013年4月までに、タイのビザと労働許可証の登録手続きをするため、彼らは自国の国籍証明を取得する必要がある。

JRSタイの移民支援担当であるKohnwilai Teppunkoonngam氏によると、このことは当分の間は歓迎すべき処置であるが、新しい期限が過ぎた後、非正規移民労働者は、現在と同じように、逮捕と強制送還という危機に直面することになるだろう。

JRSホスピタリティ報告書にあるとおり、「社会は移民と難民に対して、新しい考え方を発展させなければならない:保護と支援を必要としている彼らはそれを受けるべきである」と、JRSは信じる。

人口の70%がミャンマーの強制的に移民させられた人々であるメーソトでのプログラムは、アドボカシー、労働権の教育、そして生計活動の機会の提供を含んでいる。

4月以降、期限が再び延長されない可能性が高いので、既にタイに滞在する必要な書類を持っていない移民労働者は、登録の手続きができないかもしれない。

Teppunkoonngam氏によると、その代り、タイ政府は、2002年-2003年の間に署名した二国間協定の下で、ラオス、カンボジア、そしてミャンマーに住んでいる新しい労働者を募集する計画をしている。

国籍証明と登録の基本

過去、活動と法的権利のより大きい自由を許可する、一時的なパスポートを移民に提供する国籍証明は、高い費用がかかった。彼らの平均日当は300バーツ(10ドル)足らずであるのに、タイの地方紙によると、移民はブローカーに、15,000バーツ(500ドル)まで払った。

ナコーンパトム県にあるマヒドン大学移民センターの研究員Andy Hall氏によると、2011年、広報またはそのプロセスの理解の乏しさのため、そして長々とした混乱させる手続きの、複雑で官僚的な性格のため、登録の最初の締め切り前に、多くの移民は登録することができなかった。

しかし2週間前、タイ政府は、4月の期限までに、国籍証明をより入手可能で利用しやすくする、タイのいたるところにある国籍証明書を取得するための、いくつかのワンストップサービスセンターの開設を発表した。

タイの国際移住機関(IOM)によると、新しい登録には、費用が合計で、9,000バーツ(およそ290ドル)かかるが、以前の費用の半分よりやや高い程度だという。
Teppunkoonngam氏は、「ワンストップセンターは、移民に対して、国籍証明の取得をずっとし易くするかもしれない」と語った。そして進行中の登録を許可するために、もっと永続的な処置を据える必要がある、と付け足した。

チェンマイにあるアドボカシーNGOであるMAP財団の常任理事Jackie Pollock氏は、「書類にすることは、必ずしも仕事の状況を改善するものではないが、汚職を減らし、差別を廃止するのに多くの機会を提供する」と言う。

過小評価されている移民の労働

過去20年間、タイは、非正規の移民労働者を搾取や虐待から保護することができなかった諸政策に対し、ますます増えるたくさんの精密な調査を受けてきた。

移民の労働は、タイの一年のGDPの推計4%に貢献しているにもかかわらず、特別に高い登録費用と、労働保護基準の執行の欠如によって、移民労働者は、傷つけられやすい状態に置かれ続けている。

JRSアジア太平洋地域の責任者Bambang神父は、「人間を安い移民労働の枠にはめることは、彼らの価値を、ただの経済発展、あるいはもっと悪くは、利益の源泉に過ぎないものとして、減少させてしまう」と語った。

MAP財団によると、30万人位が、現在、登録中だが、推計200万人以上の移民労働者がいまだそのプロセスから外れている。

Pollock氏は、「彼らはまだ、なんとかタイで仕事を見つけ、滞在しようとしている」と語った。イエズス会のBambang神父は、「付き随うことで、私たちは移民が、彼らの身の上話を明らかにするのに協力したい」と語った。「それが彼らへの関心を高め、彼らの声を強くする一つの道なのだ」と彼はつけ加えた。

未返済借金は人身売買の危険を増大させる

以前の秩序立ての過程の下で、平均賃金は一日300バーツ(10ドル)足らずなので、日々の稼ぎの半分を今後の使用のためにしまっておく移民は、登録するお金ができるのに、少なくとも5か月間は貯めなければならない。

このことが、莫大な数の非正規移民労働者が2011年に登録できなかった多くの理由の一つだ。Hall氏は、「登録には、非常に高い費用がかかり、それは借金を引き起こす」と語った。

Teppunkoonngam氏によると、借金の未返済、つまり親類や友達やブローカー、そして雇用者からさえお金を借りることは、非合法な搾取と人身売買の被害を増大させる。
Teppunkoonngam氏は、「ワンストップセンターは短期的には国籍証明の手段を改善するが、両方のドアを開けておく代わりに、こちら側のドアを永続的に閉めてしまうことは、長期的な解決にはならないかもしれない」と語った。そしてまたタイが、1990年の国際条約(「移民労働者条約」)に署名することを勧めている。

書評:『風力発電が世界を救う』

牛山泉著/日経プレミアシリーズ(新書)/2012年11月

山本啓輔、イエズス会社会司牧センター

福島第一原発事故後、環境問題と同時に、エネルギー問題が改めて注目されるようになった。脱原発なのか、それとも原発維持なのか、は周知のように国民的議論を呼び、現在も、その中に私たちはいる。本書は、原子力エネルギーだけでなく、既存の化石エネルギー(石油、石炭、天然ガス)に代わる選択肢として期待されている、再生可能エネルギーについて、特に風力発電に焦点を当てて、その実力と今後の展望について、解説するものだ。著者である牛山泉氏は、日本の風力発電研究の第一人者であり、高い識見をもって、今や世界の基幹電源となりつつある風力発電をとりまく諸状況と、日本における風力発電の大きな可能性(特に洋上風力発電)、そしてそれを進めていくための今後の課題について、明快に語っている。そこで明らかにされるのは、風力発電が、原子力及び化石エネルギーに、とってかわるだけの可能性と現実性をもっていることであり、新しいエネルギー時代の到来である。それは福島第一原発事故を体験した私たち日本人にとって、新たなる選択肢として大きな希望を与えてくれる。また日本の風力発電の技術は、日本国内の実用化の遅れにも関わらず、既に世界に向けて貢献しうるだけの力を持っているのだという。これを国レベルで推進していくことは、当然新しい産業と雇用の創出にもつながるだろう。

しかし、このエネルギー利用に関するパラダイムシフトを、日本においても実現するためには、技術の問題だけではなく、同時に、エネルギー消費者である私たち一人一人の、現実を変えて行こうとする意識の変革もまた必要だろう。その際大切なことは、「人智の及ぶことと及ばないこととを見分ける賢明さ」を持つことなのだ。牛山氏は、そのためのたくさんの材料を、本書の中で提供してくれている。そして未来の予測に終始するのではなく、未来を創りだそうとする意志を持つことが重要だと強調する。これからの新しいエネルギー時代を切り開いていくために、本書は、多くの人にとって、再生可能エネルギーに関する知見を高めるのを助け、またエネルギー問題だけでなく、新しい時代の世界のあり方をも考える機会を提供してくれることだろう。

カトリック 世界のニュース(171)

アルン デソーザ(イエズス会司祭)
村山 兵衛(イエズス会神学生)

イランのキリスト者の囚人は緊急手術みとめられず

(5月8日Mohabat News)昨年の逮捕以来シラーズに拘禁されていたヴァヒド・ハッカニ氏は、刑務所の医師に緊急手術(消化器系の内出血)が必要と言われたが、当局は病院への搬送を行なわなかった。彼は2012年2月、他の多くのキリスト者とともに教会の家庭集会で逮捕された。容疑は海外のキリスト教団体との接触、反政権扇動、および治安かく乱であった。

ローマで母の日に40,000人が「いのちの行進」

ローマ(5月13日Zenit.org):米国プロ・ライフ・ムーブメント(生命保護運動)に属する著名人たちを含む推定約40,000人が、いのちの保護の行進に参加するために5月12日にローマに集まった。教皇フランシスコは一般謁見演説の中で、”One of Us”イニシアチブと呼ばれる人工妊娠中絶問題終結の世界的な嘆願に注意を喚起した。

ミャンマー:CSW詳細報告による深刻な人権侵害

ミャンマー(5月13日csw.org.uk):キリスト教連帯ワールドワイド(CSW)は、ミャンマーでの人権に関する新たな報告書を発表した。報告書は、メディア・市民社会・政治活動家のために「大幅に拡大した自由」と、一部における表現の自由の改善とを含む、国政変化の兆しを厚遇している。しかし「時期尚早な陶酔」には警鐘を促し、特に信教の自由を含む人権保護に関して、多くの深刻な課題に注目している。

インドの人身売買、児童労働に対する新プロジェクト

メルボルン(5月20日Agenzia Fides):毎日多くの子どもが拉致され、家族によって売られ、家事労働や売春に利用されている。多くの子どもが、ただ生き残るために路上で物乞いをすることを余儀なくされ、なかには闇市場への臓器販売を強制される子もいる。
カトリック・ミッション・オーストラリアは、「2013信仰宣布キャンペーン」(テーマ:「恐れるな。私があなたを救う」)を促進している。数ヶ月後に同組織はオーストラリアの全小教区で、インドをはじめとする世界中の子どもの人身売買と児童労働の、絶望的な現実に対するミッションの応答を始める。集められた寄付金はすべて、世界160ヶ国以上の国にある共同体とカトリック・ミッションの活動資金となり、小教区全体の司牧活動のサポートに充てられる。

キリスト者の連帯への道のり――シリアの難民への援助

エルナクラム(5月22日Agenzia Fides):インドのキリスト者がシリアの同胞のために結集している。シリアでは内戦開始以来90,000人以上の犠牲者と難民が増加し続けている。この憂慮すべき状況に対し、アンティオキアのシリア正教会総主教区とつながるインド・ケララ州ヤコブ派教会は、シリアのキリスト教共同体への支援の人道援助募金を立ち上げた。 教皇、「余山の聖母」の祝日に中国の信者のために祈る バチカン市国(5月23日Agenzia Fides):教皇フランシスコは世界中の信徒に、上海余山(シェシャン)の教会で崇敬される、聖母マリアの記念典礼を祝う中国カトリック信者のために祈るよう、呼びかけた。5月22日の一般謁見演説の終わりに教皇は、「わたしは世界のすべてのカトリック信者の皆様にお願いします。中国にいる兄弟姉妹と心を一つにして祈ってください。そして、死んで復活したキリストをへりくだりと喜びをもって告げ知らせる恵みを神に祈り求めてください」と語った。

教皇、自由市場の規制を求める

(5月25日The Tablet):教皇フランシスコは、側近たちが世界的な金融・経済危機に関する教皇最初の主要演説として記したものの中で「拝金主義」と抑制なき資本主義の「暴政」を厳しく批判する。教皇はキルギスタン、中米アンティグア・バーブーダ、ルクセンブルグ、ボツワナから4人の新しい大使を教皇庁に歓迎する5月16日の演説の中で、次のように述べた。「この不均衡は、市場や金融投機の絶対的な自律性を維持するイデオロギーの結果によるものですから、自ら共通善をまかなう責任をもつ国家の制御権を否定するものです」。教皇はまた、世界的金融危機の「究極の起源」が、「金融・経済の世界において人間中心の倫理を欠いていることにある」と主張している。

ヨーロッパ最大の経済を指揮するドイツのメルケル首相が現われ、教皇の広範な分析を裏付けた。「危機が膨れ上がっているのは、ソーシャル・マーケットのルールが守られていないからです」と。メルケル氏は18日(土)にバチカンで教皇との50分間の会談後、記者団に、「教皇フランシスコは、我々が堅固でフェアなヨーロッパを必要としていることを明らかにしました。このメッセージはとても心強いものです」と語った。

街のそよ風:沖縄から

山田 圭吾(泡瀬教会信徒/那覇教区)

多くの人は、安寧を望み、変革を好まないものなのだろう。ましてや、それが痛みを伴うとなればできるだけ避けようとするのが当然であろう。
しかし、あえて変えること、変わることが必要とされることがあるのも事実である。

第2バチカン公会議で、それまでの長い伝統で淀んだ空気を入れ替えようとした動きは、歓迎される向きもあったが、反発も多く、かなりの痛みを伴って、現在にも様々な形で影を落としているようだ。

それでも、あえて変革を実行した当時の教会の英断は、組織ばかりでなく、個々人の信仰も、初代教会の精神を甦らせようとの動きへと発展していったのだろう。

典礼聖歌が普及し始めたころ、個人的にはものすごく違和感があり、なじめなかった。それまでのグレゴリアンやカトリック聖歌に慣れ親しんでいたし、その大和歌風の音階は、沖縄に生まれ育った者にとって、肌に合わない感じがしたものだった。しかし、主祷文や天使祝詞等の祈りにしても、日常的に使うことによって、次第に慣れてきたものである。それまでの生活を一変する出来事はやはり戸惑いもあり、憤りもあり、そしてあきらめもあったりして複雑な思いにもなるが、それが必要だからこその変革もあることを自覚しなければならないのかと思われるのだ。

さて、多くの日本人は、日本という国が何千年も昔から現在のような姿であったかのように錯覚しているのではないだろうか。だが、現在の47都道府県の形になってから、わずか41年にしかならないのだ。

領土を広げるに従って言葉や習慣が変わり、首都や人口も移動していき、「蛍の光」の歌詞も変わっていった。急激な変革で争いも起こっただろうし、緩やかな変化は次第に庶民の生活の中に浸透していったのだろう。

だが、慣れることと忘れることは別物である。
20年程前、奄美大島の方が「高校野球では、ずっと沖縄を応援していたけど、次第に鹿児島を応援するようになった」と言っていた。琉球の一員と思っていたのに、鹿児島県と言い続けていたら、鹿児島県人になってしまったと言うのだ。良くも悪くも慣れさせられてしまったのだろう。

わずか70年程前、台湾を領土としていた時の日本一の山は新高山だったことも忘れられているようだ。戦争中は「国体」を守るために沖縄を「捨石」とし、敗戦で占領された後は、天皇メッセージによって沖縄(県)、奄美諸島、小笠原諸島を切り離し、1952年4月28日に「独立」した。それなのに、この日を「主権回復の日」として式典を行うという。これも、歴史を忘れていることの現われであろう。これらの切り捨てられた人々の存在や思いは無視され、怒りの声を挙げる沖縄に対して、「いやなら日本から出ていけ」との罵声も浴びせられたという。